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桃 二 小 少 年 野 球 部

30 周 年 記 念

 

2009年11月21日

 

 

~ 高学年監督から ~

 

西澤 綜太郎  1979(昭和54)~1989(平成元)年

 

 桃二小少年野球部の誕生。昭和54年にPTA野球部のお父さん方が御自分の子供さんを中心に三つのチームが存続していたものが卒業と共にチームは解散となり存続出来ない状態となり、当時のPTA野球部の朝倉氏より「おまえさんしか少年野球部を面倒見れる人はいないのだからたのむ!!」と要請が有り意を決して引き受けた時でした。学校側とも話し合いの末、昭和45年生まれの4年生を秋頃から募集して一期生として20数名が入部して来ました。

 秋から冬へ、冬から春になり、子供達は新5年生となり、小生と砂塚氏、小山氏と三人で開始しました。その後、大森氏、甚野氏にも参加を頂き、PTA野球部の方々のお手伝いを頂きながら少しずつ野球らしくなっていった時代でした。

 

 当時の思い出を一つだけ書け!!と云われたら下記の事が鮮明に思い出されます。一期生として参加して来た昭和45年生れの子供達は部員数こそ20数名居ましたが我々の思う…野球の出来る子供…は、早川、砂塚、真山、永野君達の4名位でした。当然秋の4年生の大会には参加を見送り、5年生の春か夏には大会に参加をして見ようとの目論見で練習を積んで来ましたが、夏の杉並区軟式野球連盟主催の大会に初参加した所、堀小スワローズの6年生チームとの対戦で56点を取られ規定外の3回コールド時間切れと言う散々たる思いで球場をあとにしました。少年野球を見くびった我々の考えを奮い立たせてくれた試合だったと思います。 ・・・次の塁を盗む走塁・・・守備力・・・送球の正確さ・・・バントの必要性・・・スクイズバント・・・ツーランスクイズ・・・多種多様な技術が必要と確信をして・・・。 一念発起を、一年発起をと思い、5年生の夏から秋、そして冬も休まず春には6年生としてそこそこの成績も得られ、一年前の夏の大会の屈辱をはね返すべく56チーム参加の大会で決勝戦まで進出し、惜しくも敗れはしましたが、「この子達がよくここ迄これたものだ」との思いを強く感じました。その時子供達に言った言葉は「成せば成る。誰にも無限の力が宿って居る」という事をわかり易く話してあげた事を覚えています。

 

 昭和54年に新たに名称を「桃二小少年野球部」として再開してから昭和57年に第一期生を送る会として12月に「桃二大会」を学校側の御理解を戴きながら成功させ、校庭が父母の皆様、選手達で埋めつくされていました。そして58年卒業生が黄金時代を築き上げ「杉並に桃二有り」の時代を造り、58年、59年と益々部員も増加し校庭が手狭になって行きました。

 昭和60年の秋より3年生の子供達も参加して初代低学年の監督に岩橋氏にお願いをして、4年生大会にも参加する様になりました。この初めての4年生チームは岩橋氏の指導のもとメキメキと力をつけ5年生と試合をしても敗けない位のチームとなり、小さなエース大河原祐記君を中心にまとまった素晴らしい桃二の一時代を築き上げました。

 

 

 

岩橋 利雄  1990(平成2)~1994(平成6)年

 

 「マティ!コーチをお願いしますよ。」・・と当時、少年野球部監督であった西澤氏から言われたのが、昭和60年秋だったと記憶している。ここから桃二小少年野球部への関わりのスタートとなり、初めて担当したのが桃二小として初めて5年生以下の入部を認めた大河原・岩崎・蛭田君たちの3・4年生チームであった。

 3・4年生チームの練習場所は旧プールのドラえもん壁の前であり、5年生チームは東門前、6年生チームは正規の場所というものであり3ヶ所で行う練習風景は真に壮観であったといえる。我々のスペースは猫の額ほどでありバント練習・バットの素振り・ノック等が中心の練習であったので早く正規の場所でしたいなーと思いながらの時期であった。

 平成元年の秋、永久監督と思われていた西澤氏が一身上の都合で八王子へ転居・転職せざるを得なくなり監督もやむなく辞任することとなった。その「後任」を受けてくれと言われたが諸先輩の方々も多々居られるので・・と固く辞退したが「黙って受けてくれ」と強引に押し切られてしまった。平成2年のチームから、私事で取手へ転居するまでの平成6年度チームまで5年間大役を担うこととなったわけです。

 この間、大雪を小型トラック等で除去しグランド整備、真夏の特訓練習、秋川でのバーべキュー大会、試合の後の父兄の方々を交えた懇親会等々色々なシーンが走馬灯のごとく浮かんでまいります。

 昭和57年7月から平成7年3月まで約13年間、荻窪・吉祥寺に居住し桃二小PTA野球部・少年野球部でお付き合い頂いた素晴らしい仲間との出会いは我が人生における貴重かつ重要な経験であったと感謝している次第です。

<市立横浜商業高校 3年夏・県大会ベスト4  昭和34~36年 社会人野球 日本石油野球部>

 

 

佃 正樹1995(平成7)~1998(平成10)/2007(平成19)年                                      

 

 桃二小少年野球部創部30周年おめでとうございます。

 主人が桃二にお世話になったのは、荻窪に引っ越し娘達が桃二に転校したことがきっかけでした。結婚した頃から念願だった野球の指導ができるようになったこと、桃二でみなさんと一緒にコーチとしてグランドに立てたことは本当に嬉しかったようです。毎週日曜日に練習を終えて帰って来る主人は、生き生きとしてとても楽しそうでした。監督になってからも小さな野球選手達への思いは益々強くなってチームの子ども達、一人一人に心を注いでいたように感じました。どの子に対しても一人一人に100%だったように思えます。同じ時期仕事も忙しく毎日、鎧をまとって戦いに行くような気持ちであったであろう主人にとって桃二小少年野球部は心から笑ったり喜んだりできた場であったに違いありません。大きく成長した教え子達が一緒に練習を手伝ってくれるそんな温かい場となっている桃二小少年野球部は主人の「ひだまり」だったかもしれません。指導させていただいた子ども達に、その子ども達を支えているご父兄の方々に、そして同じ思いで楽しみ最後まで共に歩んでくださったコーチの方々に心から感謝いたします。これからも桃二小少年野球部が皆様にとって強く優しい場でありますようにお祈りしております。   ~ 佃 朱美 ~

<1973年、広島県立広島商業高等学校のエースとして、江川を擁する作新学園を破り春の選抜で準優勝。同年、夏の甲子園で全国制覇。 法政大学・三菱重工広島に所属。2007年逝去>

 

秋元 啓助  1999(平成11)~2003(平成15)年

 

 桃二野球部には、長男が3年生からお世話になりました。岩橋さんのお世話になりながらスコアラーなどでお手伝いをしておりました。長男が5年生の時、塚山球場で試合がありベンチでスコアーブックを付けていた時のことですが、試合後、岩橋さんの奥様が岩橋さんにあの元気が良い「おじいさん」誰の「おじいちゃん」と聞いたそうです。そうですその時既に「白」かったのです。

 徳ちゃんや横尾君の頃、低の指導者になりました。その頃から「ノック」が好きでかなりイジメに近い指導だったと思いますが、今でも神明中野球部でやってます「ノックバカ」です。

 長島君・桜田君(現在・東原中学野球部監督)が4年生の時に、スポ少の大会で都大会で優勝しました。準決勝で港区のチームと当たり、すごいピッチャーで全く打てません。4回にチャンスがあり監督として初めてスクイズのサインを出し、立石君が決めてくれました。最終回にピンチがありましたが、センター前に抜けそうな当たりを牛若丸桜田君(ショート)が見事なプレーでアウトにしてくれたプレーが今でも思い出します。

~桃二野球部のピンチ~

 平成14年から部員数が減り(17名)、15年には(14名)となってしまい、代表

として、監督として廃部も考えた苦しい時代もありました。しかしその時頑張ったことが今も継続し30周年を迎えることにつながったと思うと感慨深いものがあります。平成16年から陸川君、今中君が神明中に進学し父兄からの依頼があり、部活補助員として指導することになり現在に到ってます。今年は桃二から西尾君が入部し一番ライトで活躍しており来年も数人の方々が入部してくれるそうです。今は余り桃二のお手伝いを出来ませんが、小学校、中学校で一緒に野球をやり、卒業して高校野球で活躍する姿を見ると野球をやったので良かったなとつくづく思います。これからも桃二で基本をしっかり身に付けた君達と野球ができるよう努力してまいりたいと思います。

<桃二小卒業 松渓中学野球部 法政一高野球部在籍 桃二小野球部低学年・高学年監督・代表を経て、現在神明中学野球部監督>

 

 

熊谷 俊一  2004(平成16)~2006(平成18)年

            /2007(平成19)~2008(平成20)年

 

 野球の後進県、新潟で中学生から高校生まで甲子園出場・プロ野球選手を夢見て、真っ暗になるまで毎日白球を追いかけていました。

 私はこれまで輝かしい戦績や球歴を持ち合わせていませんが、老人になっても「既に57歳老人ですが」草野球に親しみ、野球を愛し、チームメイトを愛し足腰が動かなくなるまで頑張ろうと思っています。

 桃二小少年野球部に関わって早や15年になります。きっかけは、転勤により荻窪の地に引越して息子が野球部に入部した事でした。(当時・長男4年生、二男3年生、三男幼稚園)息子の入部当初、私はグランドの外から練習風景を眺めているだけでした。そうこうする内、私の野球大好きの虫がウズウズとしだし、いつの間にか低学年のコーチをやり出していました。

 そんな私が、平成16年に高学年の監督を引き受けるまでになりました。先人監督の方達の素晴らしい球歴を考えると、何故、私が監督等引き受けてしまったのか不思議でありこれでいいのかなと言う思いでした。

 監督1年目の私は、無我夢中で子供達と汗と泥にまみれました。褒めることの苦手な私はただ怒鳴り散らすばかり、選手は何で怒鳴られ如何すれば良いのか、右往左往していたのではないでしょうか。

 これでは良くないと思い色々な野球本を読み漁りました。しかし、これはと言う野球本に突き当たりませんでした。私が行き着いた事は当たり前の事ですが、体力も技術もない小学生には基本である「投げる事、捕球する事、走る事、打つ事」をひとつ一つ根気良く繰り返し指導して行く事が上達の近道であると言う事でした。

 その後、基本を教える為にはどうあるべきかコーチ陣と議論を重ねました。結果、担当コーチ制「走・攻・守・生活指導」をしき、コーチ陣がアイデア・知恵を絞りメニューを考え練習に取り入れ指導しました。私の目指した野球は、バッテリーを中心とした守りの野球でした。しかし、何故か各種大会では守備の乱れを圧倒的打力でカバーする、打力のチームとなって行きました。この原因は何かと考えた時、毎週毎週150球~200球のバッティング投手を尾形先生がやって頂いたからだと思うのです。感謝です!!これからも健康に気を付けてバッティング投手、宜しく御願いします。

 桃二は、1週間に1回~2回の練習ですから急な上達は望めませんでした。しかし、担当コーチ陣の知恵により成果は徐々に見え始め、各種大会で上位又は優勝できるまでになりました。

 平成20年度は、全日本学童東京都大会ベスト8等すばらしい成績を残すことも出来ました。子供達に感謝、そして、保護者を始めPTA野球部の皆さんのご支援・ご協力に感謝申し上げます。

 

 

嶋田 博史  2009(平成21)年~

 

 記念すべき創立30周年のチームは、実戦経験に乏しい小粒なチームでした。チームの方針・目標設定、トレーニング理論の整理と徹底、効率良い練習メニューとスケジュール作成・運営。どのチームでも行なっていることですが、強いチーム作りのために、伝統的に少ない練習時間の中で、選手、スタッフ、OB、父兄、皆一丸となって厳しく取り組みました。周りの理解と協力を得、選手自身も恐ろしいまでの成長を見せ、私の器と想像を超えた素晴らしいチームに成長し、唯々感謝です。逆に今後は大きな問題も抱えています。内容は伏せますが、それを乗り越えるためのキーワードは、“地域に愛されるチームになること”。

<野球歴 中学~大学まで主に内野手としてプレー>

 

 

 

~ 低学年 監督 ~

     岩橋 俊雄   1985(昭和60)~1989(平成元)年

     千葉 靱男   1990(平成2)・1991(平成3)年

     秋元 啓助   1992(平成4)~1998(平成10)年

     櫻田 喜好   1999(平成11)~2002(平成14)年

     東端 浩一   2003(平成15)・2004(平成16)年

     日下部 篤   2005(平成17)・2006(平成18)年

     村上 道明   2007(平成19)年~


 

~ 卒部生から ~

 

鈴木 隆二  1982(昭和58)年

 昭和56~58年の約3年間、西澤監督にご指導頂きました。桃二小野球部内で5~6チームで対抗戦が出来る位の人数が在籍し、毎週日曜日の校庭は活気に満ちていた記憶が思い出されます。

 西澤監督との数ある思い出の中で挙げるとしたら、荻窪小学校での初めての練習試合を行った後、選手全員が愛のムチ(ビンタ)を頂いたこと。今でこそいろいろ言われるご時世ですが、その当時でも小学生相手に熱い指導をするには相当の覚悟があり、選手・野球と正面に向かい合っていた監督の姿は28年近く経った今でも心に焼き付いています。

 区で優勝、都大会出場、作業場での色々な思い出。数え切れない懐かしい話をつまみにお酒でも飲めたら最高ですね?西澤監督!

 

 

徳丸 雄介  1994(平成6)年

 試合より試合形式の練習の方が緊張したことが印象に残っています。ミスが続いたり、声が出ていなかったりするとビンタやケツバット!今の時代では信じられないことですが、当時は岩橋監督の代名詞でした。

 そんな状況の中で行った練習が実を結び、私達、そして岩橋監督の最後の大会で優勝できたことが最高の思い出です。

 このチームは今でも私の野球人生の中で最高のチームだと思ってます。

 

 

 

長島 匡克  1996(平成8)年

 桃二時代を振り返ると、都大会に出るも2回戦で負けたこと、塚山公園で2時間ぐらい走らされたこと、最後にキャプテンサンタ杯で優勝したことなどがやや色褪せるも、鮮明に思い出されます。毎日のように野球をやって楽しく過ごしていました。桃二では、良き指導者、先輩方、同期、後輩に恵まれ、私の人生に大きな影響を与えています。特に佃監督には、野球だけでなく、人間性を教えていただきました。常に謙虚であること、人一倍の努力をすること、周囲の人への感謝の気持ちをもつこと。この3つを何度も言われたのを覚えています。当たり前だけれども、重要で、実践するのは難しい。この佃監督の教えは、13年たった今も、生き続けています。

 

~ 30周年のキャプテンから ~

 

 ぼくは、3年生の時に野球部に入りました。そして、練習や試合を通してうれしいことや悔しいことを経験しました。その中でも特に印象に残っているのは、5年の都大会と6年春のスポ少決勝戦と都知事杯です。

 また、桃二の野球部では野球だけでなく、仲間の大切さや礼儀なども監督やコーチ、チームメイトから学びました。今までの桃二の野球を先輩から受け継いで今年は優勝することができたので後輩達にもどんどん強くなっていってほしいです。そしてぼくも後輩達に負けないように中学に行っても野球を続けたいです。

                        2009年 主将   柴倉 健人

 

 

 

~ 謝 辞 ~

 

 桃二小少年野球部はお陰様をもちまして本年で創部30周年を迎えることができました。先ずは、これまで携われた諸先輩・御父兄・選手の皆さんに感謝申し上げるとともに、関係各位ご支援いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

 30年と一言で申しあげましても、その間順風満帆という訳ではなかったかと存じます。桃二で3チームも大会に参加、優勝した時期もありましたし、高・低全員合わせても15名に満たず満足な試合も出来ない弱小の時期もありました。只、この間を通じて言えることは、野球が好きな大人たちが野球を好きな子供達と一緒に、より楽しくできるように考え、優しくときには厳しく接することで今に繋がっていると感じます。勝つことを目的とは致しません。目標を持ちそれに向かい練習をし、やり遂げる達成感が大切と考えます。

 故 佃監督が常々言っていました。我々は子供達に野球を教えてあげているのではない、子供達に野球をやらせてもらっているのだ。子供達に感謝しよう!と。

 これからも桃二小少年野球部はこの伝統の下にさらに充実した野球ができるよう一同切磋琢磨し、進歩することを目指します。どうか皆さま方にも更なる応援宜しくお願い申し上げます。

                       桃二小少年野球部 代表 日下部 篤

              

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